いつも当ブログをご覧いただきありがとうございます。予備校講師ハトです。以前の記事で「生徒の読解力の低下」について触れたことがありました。
「じゃあ自分自身はどうなのだろう」と考えてみると、僕は決して読解力は低い方ではないと自負しています。単純な国語の成績でも学年一桁代でしたし、模擬試験などで初めて見る文章でも殆ど問題なく読めていました。また、ブログを曲がりなりにも運営しているわけですから、全く文章力がないということもないのだと思います。
さて、自惚れで恐縮ですが僕自身が読解力がある人間だと仮定します。その仮定が正しいとした際に「どうして読解力が身に付いたか」というテーマが当然出てきます。
読んだ本の数は数える本ほど
高校時代に国語のテストで高得点を取ったとき、生徒から国語の質問を受けて(あくまで国語担当の先生がいないとき限定で)質問に答えたとき…様々な機会で友人や生徒から「どれだけ本を読んだらそれだけ文章力が身に付くのですか」と聞かれることがあります。
ですが見出し通り、僕は生まれてこの方そこまで多くの本を読んだ記憶がありません。寧ろ活字が好きではない方なのです。歴史が好きというということもあってそういいった関連の本は読むことはありましたが、それでも本職の方々と比べると微々たるものだと思います。
参考までに、僕が高校時代に読んだ活字の本は
藤原正彦著の「国家の品格」と児島襄著の「東京裁判」(敬称略)くらいだったと記憶しています。
読書量と読解力は必ずしも比例しない
ベネッセ教育総合研究所が2006年に発表したレポートでまさに見出し通りの結果が示されています。
「読解力」を育てる総合教育力の向上にむけて―学力向上のための基本調査2006より │ベネッセ教育総合研究所 (benesse.jp)
ベネッセ総合教育研究所 「読解力」を育てる総合教育力の向上にむけて―学力向上のための基本調査2006より
勿論、読書量があまりに少なければ読解力が低いのですが、このレポートによれば「本が好きで読書量が多いとしても読解力が高いとは限らない」ことが示されています。
文章の「意味」を理解しようとしているか
もう一つ「なるほど」と思った記事があるので紹介させていただきます。教育デザインラボ代表理事、教育評論家の石田勝紀氏によるものです。
私がどん底で見た「読解力がない」という地獄 | ぐんぐん伸びる子は何が違うのか? | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)
東洋経済オンライン 「私がどん底で見た「読解力がない」という地獄」
こちらの記事の一部を引用させていただきますと
『① 国語の問題で「主人公はなぜ、○○のようなことをしたのでしょうか?」という設問があったとき、
→字ヅラを追っている子は、ただ単純に「文章の中からその答え」を探そう(抜き出そう)とする
→意味を理解する子は、答えは答えとして考えつつ、「普通、○○のようなことしないだろ」とつっこんだり、意味まで考えながら読んでいる
② 英語の問題集で「I don’t like Ken, because he is always late for school.」を訳しなさいという問題があったとき
→字ズラを追っている子は「私はケンが好きではありません。なぜなら彼はいつも学校に遅刻するからです」と訳して、さっさと次の問題へ進む
→意味を理解する子は「遅刻するぐらいで、なんで人を嫌いになる必要があるんだ」と考えたりもしている
いかがでしょうか?』(東洋経済オンライン 「私がどん底で見た「読解力がない」という地獄」より引用)
まさにこれが読解力についての本質なのだと思います。
量よりも質が大事ということ
恐らくですが、仮に僕に本当に読解力があったとした場合、その力は「数少ない本でも内容を突き詰め、そこから自分の理論や新たな知識へと発展、昇華させた」ことで得られたのだと思います。
灘校の「伝説の国語教師」と名高い橋本武先生も「銀の匙」一冊を中学校3年かけて読み上げる、という教育をされていました。
一冊の本を徹底的に追及し、その本の世界だけにとどまらず外への発見へと結びつける…本当の読解力とは即ち「なぜ」「どうして」と知を追求することのように思えます。
だからこそ、最近多い「答えのみを得る」という考え方は改めさせる必要性を感じます。情報を簡単に得られる現代ではどうしても難しいということは重々承知しています。それでも「答えを見つける」ことではなく「知を生み出す」ことを目標とする…そのように生徒を育てたいですし、自分自身もそこに生き甲斐を見出していきたいものです。
それでは今回の記事はここまでにしたいと思います。今回もご覧いただきありがとうございました。
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