いつも当ブログをご覧いただきありがとうございます。予備校講師ハトです。2024年もよろしくお願いいたします。しかしながら、元日早々に『2024年能登半島地震』が起きるというのは…兎に角現地の人々にお見舞い申し上げることしかできないのですが、只管心配です。僕自身は石川県金沢市に約10年前に学会で訪れたり、教え子が金沢大学へ進学したり今年も受験を考えている生徒がいるので全く無関係という訳ではありません。現地の受験生にとってはもはや共通テスト、なんて言っている場合ではない状況だと推察されます。何らかの救済措置が取られるかもしれませんが…
ただ、被災地にいない人間が出来ることは『日常を過ごす』ことです。ものすごく心配ではありますが、僕は地震に関しての専門家ではありませんし、今は兎に角通常通りに過ごすことを努めます。
それでは本題に戻ります。
唐突ですが、僕が「この人は頭がいいな」と感じるとき、大抵は『論理的思考力』がその人に備わっています。それは単純に「勉強が出来る」「知識がある」とはまた異なるベクトルでもあります。日本は学歴社会ですが、学歴とは関係なく仕事が出来る人は数多くいます。自分自身への戒めでもありますが、単純に「学問を突き詰める」だけでは社会で生き抜く力は身に付きません。
そもそも何故「学問」をするのか
僕が生徒全体、あるいは個人個人に必ず問いかける質問です。この問いに対しての解答には「正解」はありませんが「間違い」はある、という意地悪な側面が含有されています。
「偏差値の高い大学に行くため」「就きたい仕事に就くため」といった解答が当然多いわけですが、それは正しくもあるのですが、あくまで「受験科目」の話としては、です。ここを意識しておかないと、特に前者が陥ることが多いのですが「大学合格=人生の成功」と錯覚してしまう訳です。そして、その後に乗り越えなければならない壁から目を背けてしまう…残念な話ですが、そういう人間が数多くいるのも事実です。
学問とは人生において知見を広げるためのものである、と思います。それがただ「良い点」を取るだけに陥ってしまうのが一つの問題なのでしょう。
インテリジェンス・トラップ
さて、ここで面白い本の話をします。
この書籍によれば「勉強が出来る」ことと「論理的思考力が優れている」ことには相関がないようなのです。また、自身の「頭の良さ」を「保身」に使う、自分のみを合理化しようとしてしまい寧ろ全体的に非合理化するケースも目立つとのことです。これは、昔の自分に言える事実でもあるので正しいように思えます。また「頭がいい」≠「勉強が出来る」です。勉強が出来ることは、あくまで才能の一つであると捉えるべきです。
100%の答えがない問題に立ち向かうことが論理的思考力
さて、これも僕自身への戒めですが、大学途中までの学問と研究では差異がありました。基本的に学校で履修する数学の問題などは必ず『100%正しい答え』が存在します。一方、研究はそうではありません。全く答えが予想できないモノに対して立ち向かう必要があります。
ところが、僕はこれを当時受け入れることが出来ませんでした。どうしても「自分が完璧と思う答え」に固執してしまったのです。その時の自分には「問題解決力」がなかったわけです。しかし、それから目を背けてしまいました。「自分がここまで出来ない人間のはずがない」とばかり考えて努力を怠ってしまったのです。
あの時、自らが未熟であることをきちんと受け入れていたら…後悔は尽きません。ただ、今はしっかりと反省出来ているだけ良いのかもしれないです。最後まで反省すらしない人も数多くいます。正直なところ、塾講師にはそういったタイプが一定数いるのがこの業界の課題とも感じています。改めて、答えがはっきりしないことに対して「ああでもない、こうでもない…」と試行錯誤していく能力こそ本当の論理的思考力なのだと思います。
論理的思考力を身に付けるには…
さて、この論理的思考力は一朝一夕で身に付くものでは決してありません。大人になってからでは正直手遅れなように思えます。つまりは小さいうちからそれを意識しないといけないということです。
しかし、当然小さいうちから自らが『論理的』に思考出来るはずもなく、周囲の助けが必要となります。では、如何に論理的思考力を身に付けていくか…文章が長くなってしまったので次回にそれを書いていきたいと思います。今回もご覧いただきありがとうございました。
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