いつもブログをご覧いただきありがとうございます。このタイトルの記事もこれで3記事目となりました。前回までの記事は以下の通りです。
ここまで触れた内容は予備校講師、予備校について、つまり「教える側」についてでした。今回の投稿では「教えられる側」について、つまり生徒について触れていこうと思います。
誰かが「生徒」となる瞬間
ある日、自分が教えている教室に学問をわりに誰かが入塾する…その瞬間から今まで顔も名前も知らなかったその誰かは自分の生徒へと変化します。そして、その瞬間から「講師と生徒の師弟関係」が生まれるのです。
ここで一番気を付けねばならないことは、あくまで講師と生徒の間にあるのは師弟関係ということです。
無論、講師も生徒から学びを得ることは多々ありますが、基本的には講師は指導する側、生徒は学ぶ側です。このバランスは非常に難しいものです。指導する側がすべてを押し付けてはいけませんし、甘やかしてもいけない…この辺りについての話は別の記事で書いていきたいと思います。
成績は一つの判断基準ではある
さて、入塾した生徒の「出来る」「出来ない」を判断することは非常に難しいものです。というよりも、何をもって判断するかが不明瞭です。一番簡単な判断基準は「成績」です。普通に考えれば、出来のよい生徒は好成績、出来の悪い生徒は悪い成績となります。
ただし、学校の成績が良いということは素晴らしいことですが、成績がよい=出来る生徒という方程式は僕の中では必ずしも成立しません。
出来る生徒が身に付けたもの
ズバリ「自己解決能力」だと思います。これを身に付ける、付けないが全てです。予備校講師は教えることが仕事と思われがちですが、それだけでは不足で、生徒に自己解決能力を身に付けさせてこそ真の予備校講師だと思います。
技術の発達により、対面授業だけではなくオンライン授業や映像授業が普及していますが、予備校講師の中にはそういったものを受け入れない人が一定数います。
そういった人から出る意見は
「映像だと一方通行になる」
「集中しにくい」
「受講する生徒の自己管理能力が必須」
といったものです。個人的には、こういった意見は「自分が授業をしたいという講師側のエゴイズム」に過ぎないと感じてしまいます。なぜなら、生徒の成績を上げるためなら自分が授業せずともよいわけですから。様々な手段を生徒に提示し、生徒に取捨選択をさせて最適解を見つけさせる…これこそが理想であるのに、はなから可能性の一つを切るのでは勿体ないですよね。
特に「受講する生徒の自己管理能力が必須」という講師ほど「どうやって自己管理能力を身に付けさせてあげるか」を不思議と考えないものです。こういった講師がいざ授業を行うと、個人の主観が強すぎたり、偏った考えの授業を提供しがちです。自分が正しいと思った方法のみ取り入れるので、生徒に判断させる機会が与えられません。そうすると自分では判断が出来ない生徒が生まれてしまうわけです。
つまり「出来る生徒」と「出来ない生徒」が初めからいるのではなく、教える講師によって「自分で物事を判断できる人間」と「他人の考えを鵜呑みにする人間」が分かれてしまうのです。
弟子を一人前にしてこそ師匠である
僕は予備校講師として理数系科目を教えていますが、生徒が理数系の問題を解けるようになることが最終目的ではありません。問題を解くために必要な論理的思考力を身に付けそれを学問以外にも生かしてほしい、というのが願いです。自己解決能力を初めから身に付けている、という人はいないと思います。学問のみならず、様々な経験をして少しずつ取得していくものですし、一人でマスターすることは不可能です。
そこをサポートしてこそ「師匠(講師)」といえるのではないでしょうか。「弟子(生徒)」を生かすも殺すも師匠次第ですが、確実に言えることは「自分本位な指導は指導でなく、ただ相手を退化させるだけ」ということです。以前からの記事に書いている僕の知り合いの講師もそういった面が強くなりつつあるのが心配です。僕は今関わっている生徒、これから出会う学生…そういった人達が自分で考え、自分で決定できるような指導を心がけていきたいものです。
さて、まとまりはありませんが今回の記事はここまでにします。次回は「教材研究に潜む罠」について触れていこうと思います。ご覧いただき誠にありがとうございした。
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